2013年7月14日日曜日

岡山城

岡山城へ
 
いつも後楽園から入る岡山城へ、今回初めて正面から入りました。今まで見たことのなかった岡山城を知りました。朝早く家を出て、岡山城に着いたらまだ、天守閣には登ることができませんでした。早すぎましたが、岡山城の表書院跡を見学して、宇喜多秀家の時代の石垣を見ることができました。城下町はいつ行っても雰囲気があっていいなと思います。城下町に住んで青春時代をすごせたらいいとずっと思ってきました。津山城址のある津山で孫たちが青春時代を過ごせたらいいだろうなといつも思っています。
 
 


二代目藩主池田忠雄の代に完成を見た岡山城は、全域が32棟の城門で守られていましたが、明治維新後の廃城で石山門1棟を残すだけとなりました。城の建物は、天守閣・塩蔵・月見櫓・西手櫓・石山門の5棟が残っていましたが、空襲で天守閣・塩蔵・石山門が焼失しました。本丸跡に建っている不明門と廊下門は、天守閣と同時の再建です。


前の建物は、図書館です
 
天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成した岡山城。西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれています。秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っています。関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で城主よりも長い期間の余生を過ごしました。
 秀家に代わって城主となった小早川秀秋は、それまでの西側の外堀の外側に城域を拡張して新たに外堀を設け、その外に寺町を配置しました。外堀の掘削は二十日間の突貫工事であったために、「二十日堀」と呼ばれていました。
 秀秋の夭折(ようせつ)の後は、幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました
家を出で、車で3時間あれば到着します。途中休憩した瀬戸SAと言うところは、今まで見たSAで最低の場所でした。「ごみの山」でした。トイレも汚く、今まで高速道路のSAでは最低のレベルでした。コンビにがありましたが、一体誰が管理責任者?写真を撮影して投稿しても良かったかも知れません。それ程ひどいところでした。

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