高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城。 南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城として使われてきた。 元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族、越智八郎が築城。越智氏の時代(1533年)までは、深谷峻賀崖の天険を利し、橋梁を設け本棚を廻らしたカキ上げ城で本城は貝吹山城であった。 その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備された。
本多氏が絶えた後、譜代の大名の植村家政が寛永17年(1640年)に入城。明治2年(1869年)の版籍奉還まで、14代に渡り居城した。版籍奉還により明治政府の管轄になり、明治6年(1873年)に廃城となった。
高取城は城内(ニノ門より内)と郭内(釘抜門より内(こちらの「札の辻」項参照))に分けられる。城内は、約10,000平方m、周囲約3Km、城郭は約60,000平方m、周囲約30Kmという広大な物で、山城としては日本一であろう。
三層の天守、小天守を擁し、27の櫓(内、多門櫓5)、33の門、土塀2,900m、石垣3,600m、橋梁9、堀切5ヶ所。
現在、楼閣などことごとく消滅したが、石塁等は旧規模のまま存在し、本丸・ニノ丸の約10m余の石垣は昔日の傍観を呈し、更に当初の土塀跡も樹林雑草に隠見する遺構によって察知することが出来る等、ふもとの城下町とともに明治まで続いた山城としては、日本で、ほとんど唯一の例で、極めて貴重な遺構である。
国の指定史蹟である。
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